こんにちは。知多半島ナビです。
さて、いきなりですが、皆さんは学校で「源氏と平氏」について勉強されたことがあると思いますが、正直なところ、どちらの方が好きでしたか?どちらもとても魅力的なのですが、私は断然「源氏」派です!なぜかって!?よくぞ訊いてくださいました!
それはそれは話し始めたら長くなるのですが、端的に言いますと、父である源義朝の無念を果たすべく、孤軍奮闘して平氏と戦った源頼朝の姿に惚れてしまったからなのです!今回ご紹介させていただくのは、その源頼朝の父である源義朝が眠るとされる野間大坊です!ここには義朝公の御首を洗ったとされる「血の池」等、そのゆかりが多数あり、歴史好き、特に源氏好きにはたまらないスポットとなっています!
また、密教にはなくてはならない護摩祈祷や、義朝公御最期の絵解きなどのさまざまな行事があるんですよ!
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源氏の縁の地、野間大坊! |
正式には、鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)といいます。 お寺の歴史はとても古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立されました。 時は過ぎ、平安時代末期、京都の平治の乱で、平清盛に敗れた源義朝がこの『大御堂寺』のある野間へ家臣を頼ってやってきました。 しかし、その家臣(長田忠致・景致)の裏切りにあい、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。 義朝公のお墓や、義朝公の御首を洗ったとされる「血の池」等、その頃のゆかりが境内に多数あります。 その後、豊臣秀吉公、徳川家康公の庇護をうけて発展し、現在では、尾張地方屈指の護摩祈祷の寺として信仰を集めています。 |
密教になくてはならない護摩祈祷。 |
「護摩祈祷」 野間大坊では、護摩祈祷を行なっています。 護摩祈祷とは、火を焚きあげてご祈祷をする祈祷のことです。 護摩の火に各々のお気持ちをのせて本尊様へお届けする、密教にはなくてはならないものですね。 仏教には釈尊入滅から約500年後に発生した大乗仏教の成立の過程で、インドで紀元前2000年ごろにできたバラモン教から取り入れられたと考えられています。 そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、主に天台宗、真言宗で行われるそうです。 |
〈ご祈祷〉 家内安全・身体健全・交通安全・厄除・病気全快・子授け・安産・合格祈願・商売繁盛・人形供養等祈祷いたします。 (但し人形供養についてはお尋ねください。) 〈ご供養〉 ご先祖様のご回向(ご供養)を随時承ります。ペットのご供養承ります。 〈主な年中行事〉 1月1日~6日新春大祈祷 2月3日(ただし、2月3日が平日の時は2月3日前の日曜日)節分会 毎年3月第3日曜日ねはん会縁日 4月8日釈尊誕生会(花まつり) 7月3日大施餓鬼会 |
源平合戦の世へタイムスリップ! |
「絵解き」 源義朝は京都六波羅の合戦で平氏に敗れ、この野間の地に落ちのびてきましたが、 ここ野間で家臣の長田忠致・景致親子により謀殺されてしましました。 その当時の様子やその後のことをリアルな描写と共にわかり易くお話してくださいます。 この絵の作者は江戸初期の幕府御用絵師狩野探幽です。名古屋城初代城主・徳川義直公の命により描き上げました。 |
〈料金・ご予約〉 1名様~5名様まで・・・1回3,000円 6名様~30名様まで・・・1名500円 31名様~40名様まで・・・1名400円 41名様以上・・・1名300円 |
境内を回ってみよう♪ |
「血の池」 平治元年(1159)長田忠致(おさだただむね)親子により討たれた義朝公の御首を洗った池。 国家に一大事があると池の水が赤くなると言い伝えられています。 地元では、太平洋戦争や大地震の前には池が赤くなったのを見た人がいるとの噂も!? ↓なぜだか不気味なオーラを放っております。 |
「野間大坊本殿」 本殿は豊臣秀吉が晩年に居城とした『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624-1643)に移築したもので、愛知県重要文化財指定の客殿建築となっています。 「源義朝公最期の絵解」はここで聞くことができます(有料)。 |
宝物 |
「絹本著色義朝最期図」 尾張藩初代藩主徳川義直(1600~1650)の命により、狩野探幽が18歳のときに描いた作品です。 「義朝最期図」には平治元年(1159)十二月の平治の乱に敗れて落ちのびる源義朝が尾州知多郡野間の地で譜代の家臣であった長田庄司忠致父子によって謀殺され、 のちに義朝の子頼朝が忠致父子を磔に処する話が描かれ、 |
「絹本著色義朝最先考供養図」 もう一方の「頼朝先考供養図」には、建久元年(1190)十月、 頼朝が上洛の途上に野間に立ち寄り、父の供養のために修した大法会の様子を描いています。 本図には絵解き台本が伝わっており、その内容はおおむね「平治物語」に依拠しています。 |
「梵鐘」 建長2年(1250)、鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣によって寄進されました。尾張地方で最古の梵鐘といわれています。 |
「算額」 明和8年(1771)辛卯冬11月吉日 知多郡内海中之郷邑榎本犀助章清の寄進。 この算額は、国の現存算額の中で5番目に古いものです。 大変保存状態がよく、鮮明で充分読むことができます。 裏面には明治45年に表面の細字を墨で補色した胸が書き込まれています。 (写真は、大御堂寺本堂東上に掲げてあるレプリカです。) |
仏様 |
〈本尊様〉 中央:「開運延命地蔵尊」 仏師定朝作といわれていす。 父源義朝公なきあと、伊豆の蛭が小島に流された頼朝の念持仏。 平清盛の継母の池禅尼より賜ったもの。 このお地蔵様を拝んで拝んで拝みぬいた頼朝公はのちに鎌倉に幕府を開きます。 今ではどんな願いでもかなえてくれるといわれ、信仰を集めています。 (写真はレプリカです。本物は秘仏でお厨子の中にあります。) 〈本尊様脇侍〉 左:「不動明王」 右:「毘沙門天」 |
「阿弥陀如来立像」 親鸞上人が師である法然上人の入滅(1212年)に際し、その法然上人の供養のために作ったのがこの像です。 快慶の作品です。 |
「観音様」 尾張三十三観音霊場八番札所の観音様です。 |
「弘法大師様」 多四国八十八ヶ所霊場五十一番札所の弘法様です。 |
「弘法大師様」 知多四国八十八ヶ所霊場五十番札所の弘法様です。 |
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